桃の節句の丑三つ時に

 唐突ではあるが、この放置された言葉の置き場に一つ足跡を残すことにした。

 なぜか、というものに対して、短期的理由を表すならば、自律神経が弱く、睡眠時間が前後するため、この桃の節句に目が冴え、ふとある事柄へ色々と思いが浮かんだからである。

 こういったものには当てはまるのが当然かは分からないが、特段人に向けて書こうと思ってはないし、学が浅く形式ばった世界に疲れたため、文体の乱れや語彙の誤りが多々あることだろう。そのことには注意していただきたい。また、キーボードを叩いている瞬間の感情を綴るので、良く脇道にそれるだろう。脇道が本編とも言えるかもしれない。

 

早速ではあるが、私は今カルビー社のJagabee(うすしお味)をつまみながらキーボードを叩いている。これは数年前に北海道へ行った際、目について買ったじゃがポックルを食べたらとても美味しく、その類似品であるJagabeeを食べるようになっている。このようなどうでもいい脇道が多くを占めることは間違いないだろう。ぜひ札幌~千歳あたりに行った際はじゃがポックル札幌農学校のミルククッキーをおススメする。それらしか知らないともいえるが、この二つは悪くないと思う。

 

これから本題に行こうと思ったのだが、今後の人間関係のことを考えて、内容は虚構、作り物、フィクションとする。私の人間関係など取るに足らないものではあるが...

私は私でないということである。完全にそうではないが、やや誇張と虚偽を交えている。あまりこれについて追及されても、的外れになるので困る。ということにしてほしい。

 

「甘えるな!」

この文句はこの国ではありふれていると思う。

(この書き出しは良いと思ったのだが、ふと悪い癖が出たので蛇の足を描く。私は全角英数[A、b...]が苦手で、また全角記号[()、;...]も苦手である。デザインのバランスや、ソート、並べ替えをした際、同一文字でないためバラバラになってしまい、初めに慣れたのが半角記号であったためである。しかし、「甘えるな!」ではやや不格好に思えて全角の!を用いている。This is ダブルスタンダードだろうか...)

このフレーズを使う人物像で主に思い浮かぶのは40~50代の男性である。他人に対しワンフレーズでの命令形で指図する際、大抵はその意味が拡大解釈を要する、不適当なものが多いという私の妄想がある。この場合の「甘えるな」は(もちろん場合によるが汎用的には)「自分でやるべきことを他人任せにするな」くらいのものであると考えている。

「甘える」という意は

 ①物をねだったりかわいがってもらおうとして、ことさらになれなれしく振る舞う。甘ったれる。
②人の好意・親切を遠慮なく受け入れる。また、好意・親切をあてにして、気ままに振る舞う。
③甘い香りがする。 
④恥ずかしく思う。てれる。 

[三省堂 大辞林 第三版]

 であり、上記のケースでは②の意なのであろう。大抵の場合、甘えるなと言っている方が甘えていそうなのは私の偏見が過ぎるだろうか。

 

 さて、私がこれから題とするのは①の意である。これは例に挙げられている、「親に甘える」に代表されるように多くは子供と恋人(爆発しろ)に該当するだろう。ここで述べたいのは、言語学的な話ではない。

 

 子供が甘えるのは自然であろう。一方で、

「もうあんたもいい歳なんだから、甘えてるんじゃないよ」

というのもまた自然である。と認識している。いい歳というのは状況に応じてバラつきがあるが、この場合は高校~大学(18~20)以上を指すと考えている。

 では、なぜいい歳になったら甘えてはならないのだろうか。

 

 私はもちろん子供時代、そして成人手前の今でも経済的に親に甘えている。(チラ見したところ大学卒業までは概ね扶養義務の対象として受けられるので、甘えるとはまた違うだろうか。)一方で、精神的には小学低学年時は突き放され、中学年からは自分の認識では自立していた。苦手なことでもやり抜き通し、成功を誇示することもなかった。無数の我慢をひた隠しにして。小学卒業から中学入学直後くらいの期間で、学区が変わり比較的親しかった友人の多くと離れ、精神の病み、闇が深まった。人間のレベルが下がったこともあったが、自らの認識が覆され、「真面目に学校に来ない人がいるんだ」「ネガティブなことを言う人がいるんだ」などと、色んなベクトルでの学びがあった。また、今でも悩んでいる部分ではあるが、他人が自分と(精神的に)異なりすぎて、コミュニケーションが不得手なことに拍車がかかった。ここは小学校時代が優れすぎていたことが大きいかもしれない。偏差値の良い高校に入ればまた小学時代のような優良な人間に会えると期待し、そこそこのところに行ったが、ただの地獄であった。ほぼ全員がただ点数を取れるだけの畜生であった。私はここに通わされた4年間で、全世界の人間を畜生と見るようになった。成人一歩手前の私の人生観は、私は世界を違えたのだ、ということで現世への執着はほとんどない、というものになった。

 

 閑話休題、脇道にそれてしまった。片親が亡くなったことはほぼ関係ない(健在であったときから嫌いであった)が、どうも本質は甘えん坊であったくせに(くせに、という言葉は嫌いである。が、自分へ向けてはOKとしている)、甘えるべき時期に甘えられなかったことで、成人になっても好意を渇望するようになってしまった。甘える対象がそもそもいないのではあるが、特にこの年齢では甘える行為はご法度、おかしいと捉えられると思う。

 "では、なぜいい歳になったら甘えてはならないのだろうか。"

甘える行為が条件ならば、それまでに甘えていない分甘えてよいはずである。結局は精神の成熟の問題なのであろうか。外見的には成熟していると言われるが、どうも私の中身は幼児のままである。もともと親が嫌いであったため、反抗期を迎えなかったことも影響したのか、特殊な性癖を持った。現在の精神の根幹をなすがため、ヤンデレには執着を見せている。

 

 書いている途中で幾分問題が解決したため、あべこべなものになってしまったが、まぁそれも私らしいだろう。寝る。

2020/03/04 04:00-06:00